My Cat 

My Cat 

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頭がよくこちらの感情を理解する。とても仲が良い唯一無二のパートナー。人間と交際する気はまったくない。全然さみしくない。

背景に見える銅網は自分で作ったこれ。

http://astumioishi.cocolog-nifty.com/photos/shieldroom/

結論からいうと外部からの脳へ送信の遮断や思考盗聴防止には効果ない。しかし電波はカットされておりスマホの電波は通じなくなる。この実験の結果、磁気(磁場)をカットしなければ思考盗聴(送信)防止には効果ないと結論した。磁気を遮断するには分厚い鉄板で大きな鉄の箱を作ればよいことを調べた。磁気が流れやすい鉄の箱に沿って磁力線が流れるので箱の中には磁力線が侵入できない。その中に住めばよい。しかし鉄板で部屋を作るには溶接が必要で大掛かりになるしマンションなのでできない。ブリキ板(亜鉛メッキ鋼鈑)でなら簡単に実験できるのでいずれやってみるつもり。しかしこのへんのホームセンターでブリキ板を売ってない。東京造形大のそばの八王子みなみ野駅前のホームセンターで売っていた。

2022/6/18 21:50 ドキュメンタリーのドキュメントとは「記録」の意味であって、事件や事故が起きたその時の記録だからドキュメンタリー(映像)という。自分が公開している動画はすべて現実のモビング犯罪が起きたその時を撮った記録であって、警察や裁判に提出して証拠となりえる映像だから、映画ではなくジャーナリズム(ニュース映像)に属する。俳優やエキストラを使った再現映像は一つもない。ジャーナリズムが記録した重大事件=連合赤軍事件やオウム事件が起きたその時のニュース映像には価値があるが、それを役者が演技した再現映像を「ドキュメンタリー映画」というのは詐欺であり歴史の捏造にあたる。映画監督が歴史を作ってはいけない。この種の映画を作る監督や作家は権力に迎合して真実を捻じ曲げたりバイアスがかけて事件の本質を見誤らせるために作る者が多い。重大事件に関し後講釈で学者や作家や映画監督が都合よく事件の意味を変え歴史を変えてしまうことに注意しなければならない。だから俺はオウム事件や連合赤軍事件をフィクション化(小説化)したり再現映像化した映画やテレビや小説の類を一切見ていない。見るならば当時のニュースカメラマンが撮った事件映像を見るべきだ。銀行強盗などの凶悪事件を再現した映画も多いが、単にそれをネタにしているだけであってどれも娯楽を目的に脚色されている。それら娯楽目的の「ドキュメンタリー(再現)映画」と、ジャーナリズムのニュース映像とははっきり線を引いて区別しなければならない。歴史的な事件の後に、「知識人」気取りの作家や映画監督や学者(丸山眞男)やその妻(元文学少女の丸山(小山)ゆか里)やバカ兄の立教大文学部らの文学者よる歴史の捏造を阻止しなければならない。でなければネオナチが言うように「ガス室によるユダヤ人虐殺はなかった」、日本右翼による「南京虐殺はなかった」、中国共産党による「天安門事件での虐殺はなかった」となってしまう。映画というものはまず興行的に成功しなければいけないのが使命(出資者への配当を増やすのが使命)なので、事件のニュース映像よりもどうしても脚色して観客受けするものを作ってしまう。

中国政府寄りのマスコミ(NHKを含む)・知識人・学者(日本人を含む)らによって「天安門事件の虐殺はなかった」と歴史が書き換えられようとしているが言語道断だ。作家・映画監督・学者らの知識人やマスコミは政治権力に屈して後講釈や評論で事実を捻じ曲げてはならない。これは1989年に大石敦巳が録音した天安門事件直後のラジオニュースであり、本当に虐殺があったことを示す。事件直後に「天安門広場で無差別発砲があった」と報じるニュースが中国政府の主張する「捏造」であったわけがない。しかし現在台湾・香港当局者や活動家は、大国中国による弾圧に脅え、また中国による台湾侵攻の可能性という無言の圧力によって、中国政府を刺激しないように天安門の虐殺について多くは語らなくなっているのが実情だ。こうして中国政府のような丸山眞男や小山ゆか里の如き権威主義者、中村恭己のような声のでかい者によって歴史が易々と書き換えられていく。しかし凄惨な虐殺の事実は長く世界中の人々に記憶されるべきで、当時事件を日本でワッチし、強い悲しみを覚え涙した記憶を、自分の責務として訴え続けるべきだと思う。(人民解放軍(中国軍)が民衆に向かって自動小銃を乱射する数千人規模の虐殺があった)

2年前李登輝総統が亡くなったとき白金台の台北駐日経済文化代表処(台湾大使館)に弔問した。このテープの虐殺された人々に対する慰霊の意味もあった。

https://vimeo.com/339906306

バカ兄(大石智巳)が好きで読んでいた「ライ麦畑・・」(Catcher in the rye.)を書いた作家のサリンジャーはCIAの諜報員であったことが現在判明している。村上春樹のような若者に人気な軽薄作家が権力の犬だったわけだ。権力に買収されやすい個人の作家は、権力に都合よく世論を操作するために存在しているといって過言ではない。オウム事件を扱った村上の小説はドキュメンタリーを装っているが村上が創作したフィクション。ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎や川端康成やノーベル賞を熱望した俗物のゲイの三島由紀夫も例外ではない。いい年してボディビル始めたり自衛隊に体験入隊したり剣道を始めたり川端のように「恋」したりして幼稚極まりなく老成というものが日本の作家にまったくない。三島のように腹を刺してパフォーマンス自殺したり川端のようにガスホースをくわえて自殺したり太宰のように「生まれてきてすみません」といって眠剤飲んで自殺したり、単に未熟さと幼稚さと無能さの結果でしかない。

(1970年の三島由紀夫のパフォーマンス自殺は、1963年6月11日(大石敦巳が生誕した3日後)にベトナム人僧ティック・クアン・ドックがベトナム戦争に抗議して公衆の面前で行った焼身自殺(動画検索ですぐ見つかる)のずっと後のことで、別に目新しくも珍しいことでもなかった。パフォーマンス自殺自体が三島のオリジナルな肉体表現でもない。三島が自殺した当時、大したニュースにもならなかったと記憶している。それを後年出版社が三島の命日に大々的に喧伝してバカ右翼が三島を神格化したにのにすぎない。肉体を自傷する抗議は韓国人が国会前でやる指詰め抗議にも見られ、アジアでは一般的だ。三島由紀夫が真剣を構えている写真を見たことがあるが、悪いが構えだけで
ド素人だとわかる。コネやカネで段位を取ったのだろう。自衛隊に体験入隊できたのもコネ。三島由紀夫という偽物日本文化、偽物日本人。別に俺が本物というわけでもないし日本文化を嫌いだが。)

これらの作家の知性は「完全自殺マニュアル」と同程度。自殺者という敗北者を礼賛する日本文学。世界でも奇異な自殺者礼賛文化。幼く未熟で美しい子供を礼賛するのはまだいいが、子供のように幼く未熟な大人を礼賛する日本文学はもううんざり。少年少女に極めて悪影響。「川端先生も三島先生も太宰先生も自殺を選んだからボクもワタシも死んじゃってもいいでしょ?」と安直に自殺を選ぶ。日本文学特有の私(ワタクシ)小説という奇異なジャンル。学校で日本文学を教えてはいけない。ゴミの国語の授業を減らしてもっと英語を増やすべき。**大学文学部卒業なのに英語がまったくできない日本人。恥ずかしい。アジアでこんなに英語ができないのは国語や日本文学に固執する日本人だけ。日本衰退の主因。外国人は日本文学も韓国文学もチベット文学も読まない。いずれも少数民族言語だから。台湾・中国に抜かれた日本。英語が通じなきゃ観光客も技術も情報も金も日本に来ないのは当たり前。嫌いでも英語をやらなければダメ。増々貧乏になって戦前の「バカが選ぶ国粋主義」に逆戻り。英語わかんないから日本人だけかやの外、つんぼさじき。だからバカには日本文学や日本製を賛美するしか選択肢がない。

きのう自転車で遠出したが(フィットネスジムの自転車より気持ちいいので)もうNHKが「バイデン大統領が自転車で転倒」といっている。俺はバイデンじゃないし自転車で転んでない。英語やるべきというともうアメリカ人扱い。昔に比べて日本人が英語がまったくできなくなったという事実が重要。昔の日本人はもっと優秀だった。学校と教師の劣化。日本の子供は「ゆとり教育」で遊んでばかり。台湾人や中国人は今も猛勉強中。消去法で国語や音楽や社会を減らして英語を増やすしかない。テレビを捨てて受信料支払いを絶対拒否してNHKを潰すしかない。教育の劣化はNHK教育テレビの劣化から始まった。

俺が高1か高2のとき京都市左京区の自宅近所の一乗寺の京一会館でオールナイト上映で見た「三里塚闘争」(中核派が録画)のモノクロ(カラーフィルムがまだ高価だったため)の記録映画はすごかった。中核派や成田空港建設反対派住民が激しく機動隊と衝突する現場を撮り続けた5時間以上の記録映画で、俺はまだ子供で途中うとうとしてしまい、朝方眠い目をこすりながら見ていると、反対派農民が肥溜めの糞尿を手でつかんで機動隊に投げつけ、機動隊員がそれに耐えていた。驚愕して飛び起きた。こんなすごいことが日本の歴史にあったのか!と身が震えた。作家や監督に脚色された再現映像ではなく体を張って撮った本物のドキュメンタリーのすごさだ。無論今もフィルムは保管されているはずなので、若い人に正しい歴史を伝えるためにも何らかの方法で公開すべきだろう。

京一会館は名画座でもうないが今ではその存在が伝説化されている。俺は京都時代、近所なのでよく見に行っていた。土曜日の夜~朝までやるオールナイト上映が安くウリだった。大学生の客は多かったが高校生は俺くらいものだったと思う。バカ兄はこの映画館に一度もいったこともなく存在も知らなかった。兄が好きなのは映画館に映画を見に行くことではなく、雑誌のキネマ旬報や文学書に書かれた映画評論の「文章」を読むのが好きだったからだ。(この種のタイプはクラシックファンにも多い。まず評論読んでからコンサートに行く奴。美術館でまずヘッドホンの解説聞かないと絵を見れない奴)バカ兄は評論に書かれた映画を見に行くだけで、前知識のない映画を見にいくようなことは絶対にしない。俺のようにポスターを見ただけで「三里塚闘争の映画?面白そうだから京一に行ってみるか」という発想は兄にまったくなかった。評論なんか読まないで先入観なく見るのが本来の自然な鑑賞法だと思う。

これは三里塚闘争で警察車両が炎上する現実のニュース映像を挿入したロックのプロモーションビデオ。ドキュメンタリーではないが当時俺が感動した動画。

(外部リンク)

1982年、京都から都立高3年に転入した当時にヒットした「アンダープレッシャー」。ビル崩壊や爆破のシーンを見て釘付けになった。カタストロフィーの映像が集められており、ドイツ表現主義を思われるホラー映画の映像も含まれていて美大進学を目指していた俺には魅力的だった。1929年の株の大暴落に始まった世界大恐慌当時の映像が含まれ、食料の配給を受ける民衆に「People on street」と歌っている。せかせかと歩く人は東京の日本人で、すし詰めの電車は中央線だ。俺も朝の通学でよく駅員に後ろから押されて電車に詰められた。新宿の大ガード下をみんなせかせかと歩いていたのを思い出す。みんな若かった。日本が若かった。

ロックバンドのクイーンは女王ではなくオカマの意味。イギリス女王や皇族と関連付けるのは日本語だけできて英語ができないバカ。歌っているクイーンのフレディ・マーキュリーは有名なゲイでこの後エイズで死去した。デビッド・ボウイは半テンポずらして歌うなど歌がうまいが近年死去した。

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